写真は2枚ともシャルル・ド・フーコーCharles de Foucauld(1858-1916)のもので、左は若い頃、右は晩年のようです。
フランシスコ教皇は先日5月15日にシャルル他10名を列聖しました。
●主の昇天(祭)
聖書箇所:使徒言行録1・1-11/ヘブライ9・24-28, 10・19-23/ルカ24・46-53
2022.5.29元寺小路、亘理教会にて
ホミリア
今日は主の昇天の祭日です。イエスは復活して40日に渡って弟子たちに姿を現した後、天に上げられたという出来事を祝います。今日の第一朗読で読まれた使徒言行録やルカ福音書に基づいてこの主の昇天を祝っています。目に見える形での出現は終わりますが、弟子たちはその後、約束された聖霊を受けて教会の活動を始めていくことになります。
第二朗読はヘブライ人への手紙(ヘブライ書)ですが、そこにはイエスの昇天の大切な一面が示されています。分かりにくい言葉もありますが、要するに、「キリストは天そのものに入られた」それによって「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」だから「信頼しきって、真心から神に近づこうではないか」これが要点です。
イエスが天に上げられたというのは、イエスだけのことではないのです。わたしたちもイエスと同じように、神に近づくことができる!ここには「地上の生涯を終えたのち神のもとに行く」という面もありますが、それだけでなく「この地上の生涯をとおして神に近づいていく」という面も大切です。それが「新しい生きた道」なのです。
この「新しい生きた道」について、三つのことを話したいと思います。
まずこの道が「神と人とを結ぶ道」だということです。
ヘブライ書はイエスを「大祭司」と呼んでいます。神殿でいけにえを捧げる祭司という意味ではありません。神と人とをつなぐ、神と人との橋渡しをするのがもっと本質的な祭司の役割です。イエスはその祭司の本質的な役割(祭司職)を果たされたからこそ、本当の大祭司だというのです。「橋渡し」のイメージ。こっちの岸と向こうの岸をつなぐために、こっちの岸にもしっかりつながっていなければならないし、あっちの岸にもつながっていなければならない。
そこで「兄弟」という言葉が大切になります。それはイエスとわたしたちとのつながりを表す言葉なのです。決定的な表現が2章17節にあります。
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」
イエスは徹底的に神に従い、神とつながっていた。と同時に、徹底的に兄弟姉妹とつながっていた、だから神と人との間の橋渡しになれたのです。このイエスの切り開いた道、イエスの架けてくださった橋を通って、わたしたちは神に近づくことができるのです。
「新しい生きた道」。これは「道」なのです。イエスが歩いたことによって、できた道。その道の上に乗っていれば、自動的に神の元に行ける、そんなエスカレーターのようなものではないのです。エスカレーターや動く歩道ではないので、わたしたちも自分の足でこの道を歩んでいかなければならないのです。
ヘブライ書13章はヘブライ書の最後の勧告(生き方の勧め)ですが、その冒頭に「兄弟としていつも愛し合いなさい」という言葉があります。「兄弟愛をいつも持っていなさい」とも訳されます。ギリシア語でphiladelphiaという言葉が使われています。アメリカの都市の名前にもなっていますが、「兄弟愛」という意味です。イエスが人々を兄弟姉妹とする道を歩まれたように、わたしたちも互いに兄弟姉妹として大切にするように、ということです。3節にこういう言葉があります。「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」ただ単に可哀想だから愛するのではないのです。自分も同じ痛みを知るものとして、同じ弱さを担っているものとして愛する、兄弟姉妹として愛するというのは、こういうことでしょう。
これがわたしたちの歩む道です。神に従い、すべての人を兄弟姉妹として生きる道。
フランシスコ教皇の回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」(2020)も思い出します。この回勅の最後のところで、教皇はシャルル・ド・フーコーについて語ります。シャルル・ド・フーコーは1858年フランスで生まれ、トラピストの司祭になりましたが、当時フランスの植民地であった北アフリカ・サハラ砂漠で、徹底的に弾圧されていた遊牧民トゥアレグ族の中にたった一人で入っていき、そこで彼らと共に生活しました。そして1916年何者かによって殺害されました。今年5月15日にフランシスコ教皇によって列聖されました。回勅の中で教皇は「アフリカの砂漠のただ中に見捨てられた、最底辺に生きる人々と一体となる」ことがシャルルの生き方だったと語り、「まさにこの人は、いちばんの弱者である人たちと完全に同一になることによって、ただそれだけで、すべての人の兄弟となった」とおっしゃっています。
「新しい生きた道」、それはわたしたちが互いに兄弟姉妹として生きる道でもあります。
わたしは福島県南相馬市に来て六年目になります。実は今は週のうち半分は千葉にいる母の世話をしに行っていますので、このトリプル災害の被災地で本当に何もできていません。でもわたしの願い、そしてカリタス南相馬に集まっているシスターや信徒の願いもシャルル・ド・フーコーと同じだと思っています。それはこの地の人々の兄弟姉妹となることです。この道を歩みたいのです。
「新しい生きた道」この道についてヘブライ書にはもう一つの素敵な箇所があります。
12章13節「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(新共同訳1987)ちょっと意味不明の訳ですが、「道を歩きなさい」と訳されている箇所は、直訳では「轍を作りなさい」です。車輪が通っていった後にできる窪みが轍ですね。
日本語で「轍を踏む」と書いて「轍(テツ)を踏む」という言葉があります。「前轍を踏む」とも言います。悪い前例に引き摺られて、自分も同じ過ちを犯すことです。「轍」は日本語ではこういうふうに悪い意味で使われているのですが、ここではいい意味です。「自分の足でまっすぐな轍を作りなさい」つまり、あなた方が真っ直ぐに歩いていけば、真っ直ぐな足跡が残る。そうしたら足の弱い人もその真っ直ぐな足跡を通って、真っ直ぐに歩いていける、というわけです。「良いわだちを踏む」というイメージでしょうか。わたしたちが神に従い、兄弟姉妹として生きる道を歩むならば、そこには神に向かう真っ直ぐな道ができていき、弱い人も小さい人も、みんなその道を歩んでいける。
わたしたちの教会がそういう教会でありますように、祈りましょう。アーメン。